魔術士オーフェン

 魔術士オーフェンは私にとって最高の作品の一つなのだが、この作品はどうにも微妙なポジションにいる気がする。シリーズ累計一千万部以上を売り上げた超人気シリーズにもかかわらずネットでの話題や論争にはほとんど取り上げられない。ライトノベルの歴史を語る上でも、「スレイヤーズのフォロワー」の一言で済まされてしまっていたりした。今刊行中のライトノベルオーフェンを上回る売上を出しているのは「とある魔術の禁書目録」くらいなものだ。
 それにもかかわらず、この語られなさは尋常ではない(スレイヤーズやロードスは結構語られているのに)。アニメが原作とはかけ離れており、原作ファンからなかった事にされたのも語られなさの理由かもしれない。最近の作品はやはりアニメでブレイクするのが大半だ。
 しかしそうして見るとアニメの失敗、コミカライズの爆死、ゲームのありえなさ、とメディアミックスがことごとく失敗し、かつ東部編があの内容だったにもかかわらず一千万部以上を売ったというのはやはり尋常ではない。ライトノベルの大ヒット作を見ると必ずひとつふたつはメディアミックスの成功例があるのだが、オーフェンは原作だけで成立している。それはやはりとてつもない魅力を持っていた、と言えると思う。

 オーフェンというのは不思議な作品だ。キャラクター同士の掛け合いという点ではスレイヤーズの継承者であり、精緻な世界設定や魔術設定は後の型月作品や禁書目録に受け継がれていると思える。しかし、オーフェンのフォロワー、継承者と言えるようなそのものの作品は登場していない。思えばオーフェンのカバーには必ずこういう文句が載っていた―曰く、「ハイブリッド・ファンタジー」。あらゆる要素のハイブリッドであるオーフェンはそれゆえに最後はライトノベルから遠く離れた地点に到達してしまったのかもしれない。オーフェンは「我が神に弓ひけ背約者」で90年代的なるものに答えを出し、「我が聖域に開け扉」でそれに続くゼロ年代にも結論を出してしまった。例え明日に逃れらない死があるとしても、その絶望と共に生きていく、そしてその生命のリスクは人類全体で分かち合っていくべきだ、と。超人一人で世界を背負うことはできないし、また、するべきではない、と。

 ここらへんを知っていると世界をひとりで背負ってしまった作品というのは「まだそんな話をやっているのか」みたいな感じで私にとってはどうにもしらけるところがあった。もうそんな問題、結論出てるのだから。お前ら全員オーフェン読んでくれ、という感じであった。秋田禎信BOXでの後日談ではそこから更に進んだ問題も示されていた。突出した個人が社会とどう折り合いをつけるか、絶望的な敵に対してどう立ち向かっていくか、という。どうせここらへんの話は10年代の新たな論点になるんだろうが、結局オーフェンで結論出てしまっているという事になるかもしれない。

 とりとめがなくなってしまったが、まあ要するに、オーフェンを語らない批評家や評論家はオーフェンを語れよ、と言いたいだけであった。